CENTER:&size(24){シーホースの設計};

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RIGHT:設計者 横山晃
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 フネの設計は大方、1つの直感とか要望などをテーマにして、背骨のような設計思想が一貫した時に成功する場合が多い。
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 けれど稀に、それとは逆に長い年月に亘って膨大な検討の集中が続いた場合には、更に大きな成功が飛び込んで来ることがある。
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 シーホースの設計は、私の生涯で最大の年月と努力が集中された設計だった。即ち、それは私の第17号の設計で1949年の作品だから、私は習作1号を書いた1934年から15年を費やし、しかも16号作品までのすべては、今から思えばシーホース創作のための踏み台に思われるし、その設計で建造された200隻余りの総ては、シーホースのための習作艇のように思われる。
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 そのシーホース設計以後の私は、36年間に約440艇種のフネを設計したけれど、シーホースほど多量の年月と習作、累積で準備した設計は無かった。
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 何故、シーホースの為にだけ、それが有ったのか?・・・・・・次の3つの理由が有った。

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&size(18){ヨット設計家という職業は無かった};
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 その時期の日本では、フネでも家でも、設計は建造の準備に過ぎなかったので、材料や場所の準備と同様に、設計はビルダーやオーナーが行い、その専門職業は存在しなかった。
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 けれど私は「欧米にはヨット設計の専門家が居て、絶な才能と権限を持って居る」という事を知っていたので、ひそかに其の職業の創作を念願していた。
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 だから、あらゆる学力と職業経験を蓄積し、習作艇で実験を繰返し、実績と実践を績み上げて行く為に、15年という年月は決して充分な長さでは無くて、私の場合には多くの幸運に肋けられた。
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&size(18){オリンピック・モノタイプ試作設計};
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 1936年、それはナチス・ドイツ主催の、戦前最後のオリンピックの年で、日本のヨットチームが初参加した年でもあり、次の'40年は東京と決定した年でもあった。
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 だから直後の日本ヨット協会は、モノタイプ艇(当時種目中の最小艇種は、主催国が設計建造した多量艇に各国は選手だけ派遣した。そのクラス艇)の設計要目を募集し、直ぐ続いて設計募集を、舵誌上で行った。
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 勿論私は応募Lて設計作品を出し,創作力を評価されて設計グループの一員にスカウトされた。
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 その冬から1937年に掛けて、試作艇の設計が行われ小田千馬木氏と私とが船型と船体構造の設計、小沢吉太郎氏が帆装設計を受持ち、小田暢造氏が総監督、関谷健哉氏、小山捷氏、安田貞次氏、宮川清氏が検討委員、土肥勝由氏がマネジャー、岡本造船所が建造。という構成で、試作艇2種類(小田船型と横山船型)各2隻が建造され、前回のジャーマン・ヨレ2隻と合計6隻で、日曜毎にトライアルが繰返された。
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 1938年、私達の委員会では既に、最終決定のための設計が進んでいた。けれど残念ながら、東京オリンピックは中止された。
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 その試作艇の設計と建造と試走で私が得たものは、「スピード85点、操作に反応する鋭敏さは90点、保針性は60点、凌波性は50点、ピッチングなどの運動性は40点。」という自己評価で、そのフネをひと口に言うなら「才気は有るが、調子の良すぎる御転婆娘」という感じで、私は内心の野望をフネに見透かされた感じで、口惜しかった。
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 だから其れ以後の、シーホース設計までの期間は、保針性、凌波性、運動性の本質を極めるための10年間だった。
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&size(18){戦中6年と、戦後の4年}; 
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 戦中時代は次第に物資が統制されて、セールの新調は出来なくなり、米英的スポーツの禁止でヨッティングは出来なくなった。
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 そこで私はグライダー操縦に転向し、当時の職業は航空計器メーカーの設計主任で、飛行機も好きだったので、流体力学や航空工学を精力的に独学し(それが後に、ヨット設計を肋ける)ついに飛行機設計者を目標に東大航空研究所(現在の宇宙航研)に職場を変えた。けれど飛行機の設計は当時、最高に人気のある職業なので、飛入り参加の私が這り込もうとしても、隙間さえ見付からなかった。
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 その時に、木造軍用舟艇を大量生産する、日本造船KKから御呼びが掛かったのて、早速に飛び込み、木造艇の設計・試作建造指揮・試走と改良・量産の権取り、などを6-7年も繰り返す内に、若手技師のNo.1になっていた。しかも戦後はアメリカ軍とアメリカ人の為のヨットを手掛けるチャンスが6回も有って、そのチャンスに、ヨットの保針性・凌波性・運動性を改良する実験も大いに進んだのは言うまでもない。
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 そのような15年で私の設引歴は16号を越え、オリンピック・モノタイプの頃に比べると10倍以上の経験量に達し、シーホース設計の機は熟した。
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 そのシーホースは私自身のフネ。それはレース艇でなく、私のファミリーボート。そLて1年に1度くらいは、2〜3日以上のクルージングに出ても、充分な航程と安全性と、あらゆる状況変化への適応性を持つこと。しかも毎日の夕暮れ時(当時はサマータイムと言って、日没までの時間が1〜2時間長かった。)には1人で海の散歩が出来ること。などが条件だった。
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 その頃の丸型5m艇は、極く簡素な軽量艇なら10万円程度だったが、住宅建築に全財産を費Lて間もない私には、その半分しか目算が立たなかった。
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 ところが岡本造船所社長の岡本酒造氏(故)は、「横山さんのフネなら半値で作ろう」と言い、それに答える私は「同型のフネを普及させ、岡本さんの目玉商品に育てて上げよう」と約束し、2人のギブ・アンド・テークが成立した。
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 しかも私は、その後の10年間は岡本造船所の専属デザイナーとして、大いに岡本さんの繁栄を肋け、私自身も多くの作品で有名になった。その上、舵誌に連載した「ヨットデザイナーのノートより」などの技術的随筆も好評で、「ヨット・デザイナーという職業が有るのだ!!」というPRに成功した。
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 それ等の、すべての面で「シーホースの設計」は、日本のヨット設計史上に記念すべき1頁を残した。・・・・・・・と私は自負する。

RIGHT:シーホース協会創立25周年記念誌より



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